
FIA F4選手権チャンピオン、全日本F3選手権チャンピオン、スーパーGT・GT500チャンピオン(3回)、全日本スーパーフォーミュラ選手権チャンピオン……坪井翔が日本のレースで手にしてきたトロフィーの数々は、彼を“エリート”と呼ぶに相応しい。しかし、そんな彼のレースキャリアは決して華やかなことばかりではなかった。そこには、数々の挫折と苦労から這い上がった泥臭い記憶の数々がある。
坪井は2024年、スーパーGT・GT500クラスで3度目のチャンピオンを獲得し、スーパーフォーミュラでも初のチャンピオンに輝いた。国内最強の称号でもある最高峰カテゴリー“2冠”を達成した坪井は、今日本で最も評価されているドライバーのひとりと言える。
“カペタ”のようなカート人生で名声を得る。しかし鼻をへし折られた4輪デビュー

1995年生まれの坪井は父親の影響で幼少期からカートを始め、レースの世界にのめり込んでいった。ごく普通のサラリーマン家庭に生まれ育ったということもあり、お金のかかるレース活動を続けていくことは簡単ではなかったが、カートでは連戦連勝。賞典としてもらえるエンジンやタイヤを集めることで、参戦環境を整えた。
「自分で言うのもなんですが、小さい頃はかなり速くて(笑)。特にカートの最初の頃は勝ちまくっていたので」とはにかむ坪井。それでも賞典だけで全てを賄える訳では当然なく、カートのフレームは最も安いものを購入し、セットアップとドライバーの腕で勝負した。また、使う機会がないままゴムが硬化して使い物にならなくなってしまうことが多いレインタイヤは極力買わず、雨の練習走行をスリックタイヤで走ることもあったという。
まるで漫画の『カペタ』の主人公、平勝平太のようなエピソードだ……そう口にすると、坪井も「カペタを読んでいて、途中くらいまでは『一緒一緒!』と思いましたね(笑)」と笑った。
当時の性格は「今よりも酷いくらい人見知り」で、なおかつ「生意気」。学校でもやんちゃ坊主で先生から怒られるようなタイプだったといい、サーキットでも「F1ドライバーより俺の方が全然速いと本気で思っていた」節が前面に出ていたという。しかしながら、そんな彼も挫折を味わうことになる。
フォーミュラ・トヨタ・レーシングスクール(FTRS)では受講1年目は年齢の関係でスカラシップを得られなかったものの、2年目の2011年に首席で合格。翌年から満を持して入門カテゴリーのフォーミュラ・チャレンジ・ジャパン(FCJ)にステップアップしたが、ここでは結果を出せない日々が続いた。
1年目は入賞3回でランキング7位。2年目は優勝も記録したがランキング5位に終わり、逆に同い年でFTRS生としては後輩にあたる山下健太(後にスーパーGTで共に王座に輝くことになる)にチャンピオンを奪われてしまった。
「スクールで走るのは富士のショートコースなので、わりとカートっぽい動きや感覚で走れます。でも富士の本コースに行くと、広すぎてどこを走ればいいか分からないし、看板を見てブレーキングをすることもなかったですし。フォーミュラの走らせ方が分かりませんでした」
「カートは小さい頃からやっていたので感覚で乗れていて、頭で考えることをしてこなかったんです。サスペンションがどう動いて、どう荷重がかかっているかなどを考える能力も当時はなく、FCJでは2年間で全然結果を出せませんでした」
「そこでトヨタから“クビ”を宣告をされました」
一度は外れた“エリート街道”。努力とタイミングの妙で糸口掴む

これはあまり知られていないことかもしれないが、坪井はトヨタの育成プログラムから一度外されているのだ。2013年当時の坪井は高校3年生。カートからフォーミュラにステップアップし、かかる資金もさらに桁違いとなる中、FCJまでは両親の援助も受けられていたが、それも頼れない状況になった。
プロのレーシングドライバーになれなかった時のことも考え、大学を受験しての就職も模索していた中だったが、まさにレース人生の岐路に立たされた。
「その時初めて、スーツにネクタイをして、企画書を持って……“コンコン”と(苦笑)」
始めたのはアポなしのスポンサー営業だった。当然、門前払いの繰り返し。さらにはスクールの講師としてもお世話になっていた石浦宏明を頼り、スポンサー探しやレース活動に関するサポートやアドバイスを受けた。
そんな折、FCJが2013年で終了したことを受け、翌2014年にはJAF F4の地方選手権にFCJ車両を使った“FCクラス”が設けられ、そこにホンダのHFDPとトヨタのFTRSがエントリーすることになった。そこでFTRSドライバーとして参戦する予定だったのが、現在はホンダ陣営のエースドライバーとして活躍する牧野任祐。しかし牧野は家庭の経済事情によりそのチャンスを断念せざるを得なくなり、急遽シートがひとつあいた。そこで声がかかったのが坪井だった。
「『資金の援助は基本的にはしないし、メンテナンスガレージも自分で探さないといけないけど、やる気ある?』と言われました」
「レースを辞めるか辞めないかという瀬戸際だったので、もちろん親にも相談しました。でも本当にラストチャンスだと思っていたので、自分の有り金を全部使って、祖母など身内から借金をして……色々な人に協力してもらって参戦したのが2014年でした」
崖っぷちからの復活劇

まさに背水の陣で臨んだ2014年シーズン。トヨタからは、結果を残せば再び育成のルートに戻れることを示唆されていた中で、当時ホンダ育成の福住仁嶺に次ぐランキング2位。トヨタ勢トップの成績を残したことで、翌2015年からスタートしたFIA F4にFTRSから参戦できることになった。しかしその年20歳になる坪井にとっては、そこから先のチャンスを掴むにはチャンピオンしかないことは事前に告げられていた。崖っぷちは続いた。
FIA F4で対峙したのは、Rn-SPORTSから参戦した牧野。図らずも坪井のチャンスを繋ぐきっかけとなった男が、ライバルとして再び坪井のキャリアを左右する存在となった。結果は、激闘の末坪井がチャンピオンに。翌2016年からの全日本F3(現スーパーフォーミュラ・ライツ)行きの切符を掴んだ。
F3での1年目では、かつて自らがトヨタを“クビ”になる元凶とも言えた山下と再会した。坪井としてはやり返したいという意気込みだったが、既にF3で2年の経験があった山下がチャンピオンとなり、坪井は未勝利のランキング3位だった。
「あまり器用なタイプではなく、時間をかけて努力して、地道に積み上げて結果を出せるタイプだったので、F3でも相当時間がかかってしまいました」と振り返る坪井だが、2年目の後半戦で初優勝してからは、1年半ほぼ負け無し。3年目の2018年には19戦17勝という驚異的な活躍を見せ、2019年からはついにスーパーフォーミュラとGT500の国内トップカテゴリーへとデビューを果たすのであった。
「(F3で)1勝するまで時間がかかり、トムスも僕を使うか結構悩んだところがあったと思います。でもそこで使っていただいた結果、3年目でああいう記録を残せてチャンピオンが獲れました。楽ではなかったですが、ひとまず良かったという感じでしたね」
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